午前1時のレモネード

翌朝の化粧ノリより、夜更かしの楽しさが大事。

井の中の蛙は大海の夢を見るか

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少なくとも。私が蛙だったら、世間なんて大海は知らなくてよかった。知らない方がよかったかもしれないと、今思っている。

井の中という生まれ育った場所で満足していればよかった。こぢんまりしながらそれなりに満ち足りた、自分にとって優しい世界で生きていたかった。

 

10年前までの私は、間違いなく井の中の蛙だったと思う。

ベタな話だけど小さな田舎町では優秀で、自分は勉強も運動もなんでもできる優等生だと思っていた。

いわゆる「世間」という大海の存在くらいは、もちろん理解していた。

だけど、井戸の中の田舎町と大海という世間だって繋がっている以上は似たようなもので、自分はいつか大海だって井戸の中とおんなじように渡っていけると信じていた。

 

中学生。当たり前にそんなことはないと知る。

いちばん分かりやすくそれを教えてくれたのは部活だった。

地元ではそれなりに「強い子」になれた。でもいくら活躍しても、地方大会や全国大会ではまだまだ上はいる。

どれだけ近付きたいと憧れてみたって、どこかで思い知る。自分には素質はあっても才能というほどのものはない。

 

自分の世代には通じると信じてポケモンの世界で例えるけれど、地方の強者であるジムリーダーくらいでは居られても、絶対に四天王やチャンピオンにはなれないんだろうという感覚だ。

そのチャンピオンすらプレーヤーにいつか倒されるし、さらに他の地方も存在しているわけで。四天王になったってチャンピオンになったって、上には上がいて決して満足などできないのだと知った。

むしろ上に行けば行くほど、これでも頂点にはほど遠いと知って絶望が深まるんじゃないかと思った。身のほどを知った私は、地方大会より先には行けないけれど安定して地元で上位をキープできる、ジムリーダーの座を守ることに決めた。

 

そして高校生。中学生の間も勉強はそれなりに出来る方のままだったけれど、それでも小学生と違って1点ごとにズラズラと順位が付けられれば自分は当たり前に1番ではなくなっていた。

地方とはいえトップの進学校に入ってしまえば、分かっていたけど自分など「頭のいい人」の中では平均かそれ以下なのだと思い知らされた。

もう自分が「頭がいい」なんて思うのはやめた。苦手な教科は放棄して「面白いくらいに分からない、わからなさすぎて面白い」などと言っていた。中学の同級生たちの「勉強がわからない」はこういうことだったのか、私も彼らと変わらなかったんだとやっと理解した。

 

結局私はセンターが終わってから得点率を見て決めた、適当な地方の国立大へ滑り込み進学した。

大都市圏ではないけれど、場所も有名なものも知らないほどの田舎でもなく、もうそれで十分だろうと思った。

公立国立信仰の強い地元では、地元の公立高校から地方とはいえ国立大というのはそれなりに親類なんかには褒められるコースだった。私大進学は家庭の状況(収入と兄弟の存在)上どう足掻いても不可能だったので尚更だ。

 

それでも母校にはいわゆる旧帝大早慶に受かっていく同級生たちもわりといて、MARCHや関関同立を滑り止めにする生徒もゴロゴロ居るどころか当たり前だった。

なので国立合格でやっと「この学校の生徒として恥ずかしくない実績は残した」と思える程度だった。

さらに中高一貫の私立に進学した小学生時代の友人には「東大京大医学部で褒められるくらいで、旧帝大に受かってやっと『普通』扱い」と聞いていた。

もう「世間にはそんな世界にいる人はたくさんいて、自分なんて高学歴と名乗るほとでもないんだろうなー」とぼんやり思った。

 

大学生になる頃にはすっかり身のほどを弁えていた。インターンシップで一緒になる、自分よりずっと高学歴の同級生たちを見て「うちの大学ではインターンシップなんて意識の高いことだけど、この子たちの世界では当たり前なんだよな」と少し悲しくなった。

就職活動でも、学歴フィルターに異を唱えようなんて思わなかった。「彼らは私よりずっと頑張ったのだから、評価されて当たり前じゃないか」と思っていた。地方出身の私は「国立」の肩書きだけで辛うじて彼らと並べている、「高学歴の最底辺」だなとなんとなく自覚していた。

  

いまの私は、とある政令指定都市で、とあるまあ有名な企業のグループ会社の社員として働いている。

井の中の蛙らしいところにきちんと落ち着いたと思うけれど、大海の夢を見ていた子どもの頃の自分のことを思うと、あんな夢は見ない方が幸せだったのかなと思う。

あの頃描いていた自分と比べるとあまりにちっぽけで、普通すぎるなと申し訳なくなる。

 

もちろんこのご時世「普通」が難しいことは分かっている。

むしろこれまでの私は「普通に進学して普通に就職して普通に生活していく」という「普通」を手に入れるために必死だったのだし、それを一応ちゃんと手に入れた自分はこんな体でも羨ましがられることもあるのだろうと知っている。

自分の能力や田舎がどうとか家計がどうのと、私が勝手に卑屈になっていただけで、冒険すれば違ったのかもしれないとも分かっている。

 

だけど私のキャパシティはこんなものだったのだ。それなりに負けず嫌いだし自分に自信がないわけではないけれど、それは「普通」を手に入れてキープするだけで精一杯だった。

「普通」の生活を自力で送ることさえ、時々体か精神を病まなければ自分にはできないと知ってしまった。もう「上」なんて見たらキリがなさすぎて戦意も自信も放棄してしまう。

 

だからこれから大海を泳ごうとする人たち、根拠はないけれど泳げると信じる人たちには、そのキラキラした思考に私を当てはめないでくれと思っている。

あなた方のキャパシティがそのまま私にもあるはずなんて言わないでくれ。やればできるなんて言わないでくれ。やろうとして色々それなりには努力してきてみたけど、私はこんなもんなのだ。

これもまだ甘えているとか被害妄想だと言われたら、もう頑張れない自分に罪悪感しか持てなさそうだから、私はそっとキラキラした人から目を逸らす。

 

なのにそれでも、大海を泳ぐ人たちに見放されたくないなんて思っている。井の中で頑張っていることで認めてほしいとか勝手に思っている。同じ土俵で泳げなくても、それぞれの土俵で戦っていることを認めてほしいと。

「認めてほしい」と許しを乞うている時点で甘えているとどこか思っているくせに、これが甘えならもう何もできないと思っている。

 

初めから井の中から出なければ幸せだったのだろうか。泳げもしない大海を知らなければ幸せだったんだろうか。初めから大海に居られれば良かったんだろうか。

どんな生き物として生まれてきたら、泳いでいくことに絶望も渇望も覚えなかったんだろう。と、たらればを並べながら、明日も小さな蛙として泳いでいく。たぶんそれしかないから。