午前1時のレモネード

翌朝の化粧ノリより、夜更かしの楽しさが大事。

自分の感情くらい、自分で分かれ。ばかものよ

 

わたしの口癖は「なんか」だ。

大学時代、課題として録音した独り言の特徴を分析した時に偶然わかった。無意識のうちに1分に5回くらい言っていた。本当に場繋ぎのために口に出していたこともあるけど、さすがに多すぎた。

 

それよりも気になったのは、どうしても思っていることをパッとうまい言葉にできなくて、結局「なんか」とごまかしてしまっているパターンの多さだった。

 

そういうことに気づくと、自分の感情さえもなんとなくしか分からず生きてるんだなと少しもどかしくなる。そんな時にいつも思い出すのがこの漫画だ。

 

キラキラの恋愛物語はここにはない。

ハチミツとクローバー (1) (クイーンズコミックス―ヤングユー)

ハチミツとクローバー (1) (クイーンズコミックス―ヤングユー)

ハチミツとクローバー美大の学生たちと周囲の大人の恋愛模様を描いた群像劇。有名すぎて「ああ、はいあれか」といった感すらある。

 

それでもこれは「誰でも共感してキュンキュンできる☆」「万人にオススメ☆」といった漫画ではないと思う。

 

事実、わたしも初めて読んだ中学生の頃は「恋愛ものなのに話の山も人間関係もよく分からないし、登場人物が各々の世界観構築しすぎてめんどくさい」と全10巻の4巻あたりで読むのを止めてしまった。

 

そう、この物語の登場人物たちの恋愛はキラキラじゃなくちょっとめんどくさい。なんなら生き方ごとめんどくさい。  

それこそ「なんかさみしい、つらい」とか「なんかセンチメンタルだわ」でごまかせてしまうような感情に、真摯に真面目に不器用に向き合うのだ。

自分の内面や他人の感情の動きを、律儀に詩にも似たことばで把握している。けれど、それを「うじうじめんどくさい」と感じてしまう人はきっと多くいるだろう。

 

わたしのこの漫画との二度目の出会いは、まさに「うじうじめんどくさい」モードに入っていたときだった。

高校2年の冬、数年ぶりの風邪で数日寝込み、暇すぎて思考がもはやじめじめしていた。そんな時親に暇つぶしに読みたいものを聞かれてふとレンタルを頼んだら、そんな頭にはドンピシャだった。

熱で朦朧としていたはずなのに一晩で一気に10巻を読破した。ぼんやりと「大学に入って一人暮らしを始めたら必ず全巻を揃えて手元に置こう」と決めて朝方にやっと眠りに就いた。

 

よくわからない物事とはわかるまで闘う。

どうしてあの夜突然、あれほどこの漫画にハマったのだろう。決意通りこの漫画を自力で買い集めてから、何度も読んではぐるぐると考えた。

出た結論は登場人物たちの「自分や他人や世界を自分なりに咀嚼せずには進めない生き方」に共感したことだった。

 

例えば進路も自分のしたいことも分からなくなって自転車で東日本縦断(6~7巻)とか、思いを断ち切るために好きな人とその好きな人の想い人と一緒に仕事しちゃう(7~8巻)とか、とにかくわざわざ面倒そうな方法で物事を咀嚼して、彼らは次に進んでいく。

挙げればそう感じた箇所はいくつもあるのだけど、特に強くそう感じたのはここだ。

ハチミツとクローバー (9) (クイーンズコミックス―コーラス)

ハチミツとクローバー (9) (クイーンズコミックス―コーラス)

 

9巻。全10巻のもう終盤。

本作のヒロインで、最終的にはヒーローでもあるはぐみのモノローグ。

芸術家として類い稀な才能を持ちながら、その才能を持ってしまったからこそ目に映る世界と闘い続ける運命を背負う彼女。その過酷ですらある生き方を、わたしが少し理解したシーンがここだ。  

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「やってみたい事がたくさんある 創ってみたい物が果てしなく散らばっている」

「新しい箱を開くたび たくさんの『?』が飛び出してくる」

「私はそのひとつひとつ つかまえて格闘し 味をたしかめて飲み下し 名前をつけてあるべき場所に還していく」

「その くり返し そのためのぼう大な時間」

「この箱を全部開けたい ーでも全部開けるには人間の一生は短すぎる」

 

類まれな才能ゆえに、才能を持てないものに羨まれたり妬まれたり。

地元に戻って活動したいと、自分のしたいようにすることを才能の無駄と許されなかったり。はぐみの人生はそんな人生だ。

 

たとえいくら周りに認められようと、そんなものは彼女をたぶん満たさない。彼女は自己表現のために「創りたい」と思っているのではないからだ。 

 

彼女は目に映る世界の、気になったり印象に残ったりしたものを時に描いて時に彫る。創ることでその気になる物事と格闘し、味をたしかめ、飲み下す。

そうして名前とあるべき場所を知ることで、まるで図書館の本を正しい棚に返すように、彼女はその物事を彼女の世界に還すことができる。 

 

けれどこれは逆に言えば、自分の手で創ったものしか本質を理解できないということだ。たぶんはぐみにとって、創ることだけが世界を理解する術であり生きる術なのだ。

わたしたちはざっくりとテレビやインターネットで見ただけで、様々な物事や感情や風景を知っていると思い込む。けれど彼女はたぶん、創ることでしか世界を知り理解することができない。

 

「わかった」と思えるまでの情報量が人の何倍も何十倍も必要になる。世界を写し切り取る解像度は人よりめちゃくちゃ高いけれど、その「才能」の正体は普通の人より何倍も何十倍も多く必要な情報量なのだ。

 

自分の感情くらい自分で言えたい。

わたしは本当にほんの少しだけ、彼女に似た自分の不自由を知っている。わたしにとっては、考え書くことが世界を知って生きるために必要な営みだった。

その実験の産物を誰かに確かめてほしいと思うことはあるけれど、たぶんそれは自己表現とは少し違う。 

 

彼女の言葉をわたしなりに変えるとこうだ。

「知りたい感情や見たい風景がたくさんある 知ってみたいものが果てしなく散らばっている」

「新しい日々を生きるたび たくさんの『?』が飛び出してくる」

「私はそのひとつひとつ つかまえて格闘し 味をたしかめて飲み下し 名前をつけてあるべき場所に還していく」

 

はぐみが描いたり彫ったりすることで消化するものを、わたしは言葉にすることで消化する。

うまく言えず、名前も付けられずに「なんか」とごまかしてしまう気持ちを、きちんと言葉にして名前を付けることであるべき形にしていく。

 

それがまだまだできないから、わたしの口からは「なんか」がこぼれる。うまく名前を付けられない感覚や気持ちが「なんか」という名前で溢れる。

だけどそのまま名無しにはしておきたくなくて、きちんと味を確かめたくて、そうやって形にしているもののひとつがこの文章だ。

 

ときどき、小説やインターネットのどこかで「そうだこれわたしも思ってたことだ」ということばを見つける。

それはハッとしてとてもすっきりする瞬間だけれど、自分の感情すら自分で言葉にできなかったことにちょっとがっかりし悔しくなる瞬間でもある。

 

そういうわけで、名前を付けられないままの感覚や気持ちに言葉という形を与えてやる、言葉という名前をつけて消化して世界に還してやる。そのための練習場所がたぶんここだ。

 

自分の感情を「なんか」じゃなくて、誰にでもわかる言葉でちゃんと言えたい。なんて思う私も「うじうじめんどくさい」人間だと思う。だけどそれでも、自分の感情くらい、自分で分かって自分で言えたいのだ。

 

自分の感受性くらい

自分の感受性くらい

 

 

タイトルの元ネタはこちら。教科書に載っていたこの詩くらい、自分の感受性を大事にしたい。