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教員にならなかった、元実習生の独り言

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ゼミと教職課程と課外活動に追われてパンク寸前だった学生時代、一度自分は鬱になりかけたと思っていたことがある。

けれど最近思い直した。「あれは鬱ではなく、いわゆる灰になりかけていたんでは?」と。

 

鬱か灰になりかけていた大学生について

わたしが鬱になりかけたと思っていたのはこの時だ。

ストレスで五感、具体的には聴覚が一時的に軽く壊れた。 この時から少しだけ、「この程度のストレスでこんなに身体に影響が出るなら、自分はわりと鬱になる素質があるのかもしれない」と思うようになった。

 

元々、個人プレーが好きだし得意なタイプだった。だから鬱になる人によくみられるという「人に頼らず自分で溜め込む」「請け負った責任感が強い」傾向はあった。

それを知って、余計に自分の素質のようなものを感じた。自分の弱体化ぶりに落ち込んで、落ち込んでいることに落ち込んで、のスパイラルに陥っていた。

また頑張りたくても、頑張るための燃料が何だったのか思い出せなくなった。そんな日々をわたしは「ちょっと鬱っぽくなってしまった」と思いながら生きていた。

 

それを「鬱」ではなく「燃え尽き」だったのかもしれないと、2年越しに思い直せたきっかけがこの記事を読んだことだ。

というわけで、今回の記事はこちら(読んだのが繁忙期だったので下書きで2ヶ月ほど眠らせてた。てへぺろを読んでの感想文と自分のための備忘録です。

 

こちらの記事の要旨は「頑張り過ぎることが当たり前になり、燃え尽きて灰になった、あるいはなりかけている先生たちの現実」だ。

だから鬱だの燃え尽きる云々も、先生方の話の中で結果的に出てくるだけであってこの記事のメインではない。と予め言っておく。

 

それでもこの記事を読んで記事を上げる程度には思うところがあったのは、わたしが昔メンタルを壊しかけた理由にこの「教職」も少し関わっていると感じたからだ。なのでここからは教職に関わる話が続くけれど、なんとなくお付き合いいただければ幸いです。

以下、わたしは教職については中途半端な立場だけど、だからこそ客観視できることもある…んじゃないかと思いながら、先生たちと自分に共通する「鬱」や「燃え尽き」について思ったこと。

 

実習生になった理由、教員にならなかった理由

まず大学時代のわたしのことを再度簡単に。わたしは教育学部でもなく必須でもなかったくせに教職課程を取りめんどくさい厳しいゼミに所属しながら、部活に参加しバイトもしていた。そして特に部活の負荷が一時大きくなりすぎた時に、キャパシティを超えてメンタルと五感を軽く壊した。

正直、欲張りすぎで抱えすぎなのは自分でも薄々分かっていた。だけど留年だの留学だのをする余裕はなく、最安最短ルートで卒業して働かないといけない自分にとっては、これらこそが「大学時代にしかできないこと」だと思っていた。だからどれもやってみたかったし、やれると思いたかった。

 

中でも教職を取ったのは、大学で教職課程を取ることが、実際に教員にならない人間が教壇に立てる最初で最後の機会だと思ったからだ。

教壇に立ってみたかった理由は、ひとつは単純に今まで自分の通ってきた道を逆の立場から見てみたかったから。そしてもうひとつの理由は、現場も何も知らずに学校や先生に文句を言う人になりたくなかったからだった。

 

今だとこちらの記事が話題になっているけれど、先生たちにも弱音を吐いたり生徒の問題を解決しきれなかったりすることがある。わたしは常々、そんな時に聞こえる「学校は何をしているんだ!」「こんな教師は教員失格だ!」という声を挙げる側にはなりたくないと思っていた。「そんなこと言うなら自分がやればいい」と思っていて、だからこそ、自分もやってみたかった。

 

「生職」ではあっても「聖職」じゃない

教職課程を振り返ると、実習は楽しかった。単純に、机上では想像できない生の反応は面白かった。「授業は生きている」という言葉を実感した。慕ってくれる生徒たちは可愛かった。伝わりやすい授業を考えて、実際に反応を見ながら作り直していくことは「とても面白いしやり甲斐がある」と思えた。

けれど、実習の限られた期間だからできるだけで、それを毎日毎日何年も続けていけるとは思えなかった。実習生を受け入れられるような、生徒が意欲的で優秀で安定した学校だから何とかなるだけだとどこかで思っていた。

 

何よりいちばん大きかったのは、わたしには実際は授業よりもウェイトが大きいであろう生徒保護者の対応・部活動を手に負える自信が持てなかった。自分は単純に授業の準備をするだけで必死なのに、その指導をしながらテストやプリントの作成・管理・採点をし、生徒を見守りながら成績評価やクラス運営も部活指導もこなす先生方は超人に思えた。

それらをきっちりしっかりこなしていく先生方の生き方と強さには敬服したけれど、わたしがそこに見たのは聖職者なんかじゃなく、生徒たちの若さに影響されて生きる力に溢れている、パワフルで格好いい専門職の方々だった。

 

一方わたし自身は一度ストレスで心身の不調を経験してから、自分のメンタル強度への信頼はゼロになった。教職に就こうものなら間違いなく数年で心身を病むという自信ができてしまって、実際に教職を目指す意思は起こすこともできなかった。せめて各種実習へ参加させていただいたことだけは無駄にしないために免許状だけはきっちり取得した、それが精一杯だった。

実際に今教員をしている友人たちも何人かいる。教員を元から目指していた人も、過程を履修するうちに志した人もどちらもいる。けれどどのタイプにしても、仕事の話は聞いているのもキツい。

 

地元には中学時代から「絶対に先生になる!」と目を輝かせていたキラキラ系の友人と、物心ついた頃から「教員以外考えたこともない」ガチ勢の友人がいる。彼らはまだ講師だけれど、体育会系の部活も持っていて「休みは月単位とかテスト期間ごととか、半年単位でしかないよー」と言って会う度に痩せていく。

大学の友人には、現役で正規の教員に合格した人がいる。彼女は大学時代には普通に元気な女子大生だったけれど、仕事を始めてからは既に何回も体調不良に倒れて仕事を休んでいる。顧問をしている部活動は彼女のしていた部活なので、楽しそうなことだけが救いだ。それでも既に県内の新人先生は何人辞めた、とも聞こえてくるらしい。

 

そんな先生たちの実態は、公務員だとか聖職だなんて事実やイメージさえなければ、ブラック企業とも堂々と肩を並べられるんじゃないかと思う。むしろそんなイメージはいい加減重荷だから要らないとも思う。聖職者も何も、人間だよ先生も。

新人の甘えという可能性を加味したって、心身ともにどこも壊れない方が珍しいんじゃないかとさえ感じる。だから、挙げた記事の先生の話は誇張や被害妄想なんかではないだろうと普通に思う。

そんな先生たちとわたしを同列に語ろうとするのは間違いなくおこがましい。それでもあえて語ると、こんなわたしにもこの記事で先生たちに危惧されている「燃え尽き症候群」に少し心当たりがあるのだ。(やっと本題。うひゃー!)

 

燃え尽き、灰になるということ

そもそも先生たちがなりやすいとされる、鬱と燃え尽き症候群ってなんだ。関係はあるのか、何が違うのか?からだけど、この記事によれば以下の違いがあるそうだ。

バーンアウトは「燃え尽き症候群」という言葉が示す通り、疾病ではなく、あくまでも症候群である。ウツ病でもなければ、バーンアウトしたからといって、必ずしもウツになるわけではない。

 

わたしは調子を狂わせたとき、間違いなく燃え尽き症候群と鬱を混同していた。「頑張りすぎて燃え尽きてしまったから鬱になる」くらいの連続性は思い切り考えていた。

ではそもそもの「燃え尽きて灰になる」とはどんな状態なのか。

その状態は次のように定義されている。

「長時間にわたって人に援助する過程で、心的エネルギーが絶えず過度に要求された結果、極度の心身の疲労と感情の枯渇を示す症候群」

 

灰になりかけた時のわたし自身は、先生方のように「長時間にわたって人に援助」していたかと言えば少し違った。ただ強いて言えば、勝手に「家族のために」「友人知人のために」とか、自分が頑張ることで誰かの支えや援助になっているとはどこかで思い込んでいたかもしれない。

受験を終えた児童・生徒にも「燃え尽き症候群」になる人が多いとも聞く。彼らの合格のための努力の向こうにはきっと、支えてくれる人々の存在もあっただろう。

それが分かりやすく「援助」という形ではなくても、人が身を削って頑張る時、「自分のために」の後ろに「自分を支えて期待してくれる家族や友人のために」が隠れていることはよくあるということなのかなと思う。

 

そしてわたしが「自分、鬱というより燃え尽き症候群だったのでは?」と一番考えさせられたのはここである。

ウツもバーンアウトも、どちらもストレスが原因で起こる症状だが、そこに至るまでのプロセスと、発症後の対処策が全く異なる。

ウツが自分の置かれた状況や、遭遇した困難にうまく対処できず陥る状態であるのに対し、バーンアウトはいわば過剰適応。高い目標設定を成し遂げようと踏ん張り、いかなる試練にも真っ向勝負で立ち向かい、ひたむきに頑張り続けた結果、“尽きる”。

燃え尽きる、という言葉通り、正真正銘、燃え尽きた結果なのだ。

 

鬱になりかけた(と思っていた)当時のわたしは「部活動も研究室もアルバイトも、教職課程も就職活動も、全部人並み以上にきっちりしっかり結果を出してやり切りたい」と思っていた。スーパーマンでもないのに、そんな高い目標をクリアできると思っていたし、しないといけないと思って踏ん張っていた。

おそらく先生方にもそんな人はとても多いんじゃないかと思う。これすら偏見で何も分かっていない発言かもしれないけれど、何だかんだで教員は優等生だった方が多いだろう。だからこそ大人になって就職して教員になると、自分の理想の先生になろうとキリもないのにあれもこれも優等生的に頑張りすぎてしまって、結果燃え尽きてしまうんじゃないだろうか。

 

真っ白に燃え尽きた、そのあと

わたし自身に話を戻すと、「燃え尽きた人のその後」について述べている以下の部分にもめちゃくちゃ身に覚えがあった。

バーンアウト症候群に陥った人は、休息をとり、体力が少しでも回復すると、再び、厳しい環境に果敢に挑もうとする。

「今度こそは、うまくやらなきゃ」と、それまで以上に躍起になる。が、どんなに頑張ったところで、エナジーは燃え尽き、灰になっているので戻ってくることはない。熱い思いとは裏腹に、それまで対処できていたこともできなくなり、ますます心身衰弱に陥ってしまうのである。

 

間違いなくこれをやってた。特にここ。

休息をとり、体力が少しでも回復すると、再び、厳しい環境に果敢に挑もうとする。「今度こそは、うまくやらなきゃ」と、それまで以上に躍起になる。

実家へ逃げ帰って休んで、少し回復したらもう大丈夫だと思った。同時に、弱ってしまった自分が嫌になって振り払いたくて躍起になって、うまくやれなくなっていたことを「休んでリフレッシュしたから今度はいけるかな?!」なんて学習せずにまたすぐにやってみた。

 

だけど確かに、燃え尽きたものが再び燃えないように「今度はいける」なんてことはなかった。今思えばあれは自分の燃料が切れていたのかもしれないけれど、当時は成長が止まったとか退化してしまったと思っていた。

そして結果的には上記の通り、

対処できていたこともできなくなり、ますます心身衰弱に陥ってしまう。

これが辛かった。今まで出来たことも出来なくなった自分が、とてもとても嫌だった。休めばまた元気になると思って休んだはずなのに、以前通りのことができないから尚更だ。

 

出来ないのは甘えだと、本当は出来るのに怖くてできなくなっているだけだろうと思いたかった。だけど実際、何もかも今まで通りにはできなかった。

これが「鬱」と「燃え尽き」の区別がつかなかったところだ。「意欲がなくなる」って鬱っぽいとか思うじゃない。どちらか区別は付かないし考えもしなくても、こんな状態にいる人は教員に限らず結構いるんじゃないかと思う。

 

いつか、本当に灰になる日まで

ただそうは言っても、人間「灰になったのでもう何もできません」とは言ってられない。だって実際にはわたし達は生きていて、まだまだ本当に本物の灰にはならない。

じゃあそんな、精神だけは燃えて灰になってしまった人のその後はどうしたらいいのか。

燃え尽きを防ぐ、あるいは燃え尽きた状態から回復するには、それまでの仕事へのコミットしすぎた働き方を見直し、「これくらいでいいじゃないか?」と、自分を許す緩さが必要になる。

だそうだ。でもこれが難しいんだよな。

 

元から優等生気質だから頑張って頑張って燃え尽きちゃったんだもの、そんな今までの自分と自分の生き方を全否定して180度変えるような「緩い」生き方にはなかなか転換できない。

だけど確かにわたしは、自分に必要なのはこの「緩さ」だとも実感している。どれだけ自炊をサボっても、他の家事の変な所できっちりしたがるような気質がどうも治らない。「こうすべき」というマイルールと理想がありすぎて、仕事でもひいひい言っているのは言うまでもない。

ゆるく生きているつもりでも、なかなか力の抜き方をうまく覚えられない。 ただ何より必要なのは、頑張りすぎては自分が壊れるところで「自分を許す緩さ」を覚えることなんだろうとは思う。

 

まだ、本物の灰にはなれないから。なってやれないから。それまでに先に中身が燃え尽きてしまわないように、本当に自分のことをうまく「大事にする」とか「甘やかす」ということを、考えて覚えなきゃいけないんだなと思う。

たぶん余裕がなくてそれができない、考えられない仕事ならブラックと考えていいんじゃないかな。幸いこんなことを言って書いていられるので、今のわたしはきっと大丈夫だ。

 

「頑張れなくて余裕がない自分が悪い」なんて考えがちな、灰になりがちな人たちが、本当の灰になってしまう前にどうか自分に優しくできますように。働き方の見直しが進んでいる風潮と合わせて、そう思う。

眠らせてたせいで加筆修正しまくってめちゃくちゃ長くなった…記事を分けるかシリーズ化すべきだった…けどもう書いちゃったのでこのまま上げてしまおう。長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。