午前1時のレモネード

翌朝の化粧ノリより、夜更かしの楽しさが大事。

私だって、結婚したい、って思いたい。

f:id:reni025:20180727014909j:image

思えない自分を受け入れきれない。普通に普通を装えない自分に吐き気がする。

「結婚なんてしたくない」なんて、『少数派な自分はちょっと周りとは違うんだ』みたいな思春期の中高生が一過性のものとして吐いてそうなセリフだ。惚れた腫れただの彼氏彼女がどうだの、はあ、さほど興味ないっす、みたいなキャラの。

それなのにアラサーと呼ばれる歳になっても、心の底から同じ言葉を口にできるし、より正確に言えばするしかない自分が嫌でしんどい。

 

学生の間はそれでも良かった。若さに付随するかわいさってやつが、ちょっと中二(または高二か大二)病の気があるところもキャラクターとして成立させてくれた。

だけどもうこの年齢でそんなこと言っていても可愛くなんかない。可愛がられたいわけじゃないけど、要はもはや全く微笑ましくはない。

自虐でもなんでもなく、客観的に見て20代半ばに差し掛かって結婚したくないなんて言っている女に下される判断なんて大体分かっている。良くて「バリキャリ志向の子なんだな」、次いで「ちょっとメンヘラかサブカル入ってる子かな?」、悪ければ「負け犬の遠吠え乙」だろう。例え理由がなんであっても。

 

分かっていたから、期待していた。自分の気が変わることを。普通に結婚っていいな、と思えることを。そうして楽に生きられるようになることを。

20代前半、恋人がいればそんな気にもなってくるんじゃないかと思っていた。「この人と家庭を築きたい」、「この人との家族を作りたい」といつか思えるんじゃないかと思いたかった。

せめて人と一緒に暮らせるビジョンが欲しくて、恋人と朝を迎えることへのときめきより、朝起きてとなりに他人がいることを受け入れられる自分への安堵を確かめてばかりだった。

20代後半、いわゆる適齢期に差し掛かって、周りがそんな話をし出したら自分もその気になるんじゃないかなと思っていた。だけどそんな気配はなかったし、これからもほぼなさそうだ。

 

恋人をもつことも、正直もういいかなと思ってしまっている。この人が好きだという気持ちと結婚して共に家庭を持ちたいという気持ちは、私の中では必ずしも連動しないか別物だったらしい。

結婚を望まないどころか「積極的に避けたい」、こんな私に付き合わせたって正直未来はないし、望む幸せな家庭も一緒に築けない。

学生時代、ある人の夢をいつか教えてもらったのを今も覚えている。有給休暇の取りやすい企業に入って、いつか子どもの学校行事に大手を振って参加してやるのだと。運動会なんかでは一緒に走ったり、全力でビデオを撮ったりしたいのだと。

それを実行する彼のことは容易に想像できたし、見てみたいなと微笑ましく思った。けれど同時に、自分がそこに母として参加しているイメージがつかなさすぎて絶望したのだ。それなら私は手を離した方がいいのではと思ったし、もうそのつもりになりかけている。

 

ちなみに私が結婚したくない理由は昔からずっと同じだ。端的に言えば、死ぬほど自分に自信がない。

女として、妻として、親としての自分を考えた時の自信なんて、ないどころか自己評価は最低クラスだ。私が異性なら私のことは絶対に選ばない(逆に「こういう人なら選ぶ」という基準もないのだけど)。

自分のことだけで必死な私では、家族になる人のことも新しい家族のことも幸せになんてできない。それなら一緒にならず、私の子どもとして生まれない方がきっと幸せだと本気で思う。

あとは、嫌われたくない。正確に言えば、私個人が私個人のことを理由に嫌われるのはいいのだ。

けれど、結婚という家庭同士の話になった時に、個人ではなく家庭の問題を理由に嫌われたら立ち直れない。だけどその可能性がある自覚は十分にある。他でもない自分が、実家とできるだけ距離を置きたがっているのが何よりの証拠だ。

 

そんな何もかもを振り切って、「いざ結婚してみたら考えも変わるかも」とは思えない。そんな結婚に人を付き合わせたくはない。

かと言って、ワガママだとは分かっているけど、そんな風に踏み台にしても罪悪感を覚えずに済むような相手とはさすがに結婚したくない。

仮に結婚してみたら意外と落ち着いたとしても、今度は子どもはまだか、跡継ぎ問題は、子どもの進路や学校は、と望まれることにはキリがないと思うとまた吐き気と目眩がする。

某アーティストの曲にそんな歌詞があったけれど、そんな「理想」をそれが「普通」だからと置き換えて、どこまでも追い求めなければいけない風潮がきつい。

 

どうして普通のことができないの、だとか。どうして自分から幸せになろうとしないの、だとか。理想を追い求める前から諦めるなんて、だとか。

そんな「誰しもが誰もが羨む成功と幸せを願っているし、誰しもがそれを目指すべきだ」というプレッシャーはどこから来るんだろう。それこそ「普通」という名の「理想」を願う人々の希望の重圧だろうか。

誰よりも自分のことを知っているのは自分なのだから、その自分が「自分のレベルとキャパシティ的に、目指せる幸せな生活はこんなものだろう」と見積もることがどうして悪いんだろう。

 

そう思うけれど。それがきついんだよやめてよって、理想なんて求めなくても幸せなんだよって、声を上げる方がキツくて重い世の中だから。

四半世紀叶わなかったから、きっとこれからも叶いそうにないけど。ああいっそ、私も普通に何も疑問に思うことなく「結婚したいな」と思えたらラクなのにな、と願ってしまうのだ。

進学や就職と違って、相手が必要なことばっかりは自分をごまかして適当に長いものに巻かれるわけにはいかない。少なくとも私にはできないから、この夏もへらへらしながら「結婚しないんじゃなくてできないんだよ」と旧友たちに笑うんだろう、と思う。