午前1時のレモネード

翌朝の化粧ノリより、夜更かしの楽しさが大事。

人生における重大な決断をだいたいしないという決断について。

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大きな決断が必要なライフイベントって、人生にはいくつか存在する。

若いところからだと受験・進学、その先は就職、人によっては転職も発生する。そのあたりになると結婚というイベントも発生しだす。各イベント発生に伴って引越しイベントも起きることがある。

 

結婚も挙式をするなら日取り会場招待客と決めることが目白押しだけど、結婚した先はさらに決断が必要なイベントだらけだ。

妻となった人が妊娠すれば出産・育児、そして子どもの受験・進学やマイホームの購入なんかも起きていく。

そして書き出してみて思うけれど、「受験・進学、就職・転職」まで終えた私は、ここから先に発生しがちな全てのライフイベントを起こそうという気が全く起きないのだ。参っちゃうくらいにやる気がねーのだ。 

そもそも、結婚から先に書き出したイベントは全て、一人では起き得ないしできないイベントだ。

結婚には相手が必要だし、その家族や友人・親族も関わってくる。子どもが生まれたら子ども当人はもちろん、そのまた友人・親族との関わりも生まれてくる。

私はたぶん、この「一人ではできない=誰かを巻き込む」ということが死ぬほど苦手なんだと思う。

 

自分の判断が誰かに迷惑を掛ける可能性があるのが本当に本当に苦手だ。迷惑とかじゃなくて世話だしお互い様だよとか、そんな言葉は求めていなくてただただ苦手だ。

適当に決めたり間違えたりした時、自分だけが被害を被るならいいけど、自分以外の人間に被害や影響が及ぶ可能性に耐えられない。

かといって、そんな事態が発生しないよう死ぬ気で守るなんて気概も持ち合わせていない。

だからもう、自分のことだけ選択して決断して、メリットもデメリットも受けるのは自分だけで完結できる「一人で生きる道」を選び取りたい。という決断をしたい。

 

「決断する」ではなく「決断したい」としか言えないのはやっぱり、長いものに巻かれたさがどこかであるからだ。

人と違うというか、少数派な選択をするのはエネルギーがいる。「どうして皆と同じにできないの」という同調圧力に晒されることになるのはよく知っている。

学生時代は、それを分かった上でも少数派の選択をするのはわりと余裕だった。

「少なくとも今ここでの多数派少数派なんて、この学校内だけのどうでもよくて数年後には恥ずかしくすらなるような暗黙の了解だ」と知っていたから。

その狭い世界の中なら、有無を言わさない目立つ結果を残していれば、少数派を多数派にすることはできないまでも「栄光ある孤立」のような不可侵のポジションを築くことくらいはできた。

 

でも社会に出るとそうはいかなくて、本当は必ずしも必要ではなくて通過を選択できるはずのライフイベントも「大人になるための通過儀礼」なんて扱いをされている。

そしてひとつの学校という小さな世界なんかではなく、もっと有象無象の意思が集まった「世間」だの「世論」なんてものが闊歩している。

さすがにそれをひっくり返せると思うほど幸せな思考回路は持ち合わせていない。だから有象無象の意思と毎回毎回戦えるほどに覚悟は強いのかと問われると、長いものに巻かれて楽になれたらいいな、と思わないとは言えなくなる。

 

例えば。「世間一般の普通になりたいから、結婚だけしてください。でも出産育児はしたくないです」

そう言って奇跡的に受け入れてくれる誰かが居たとして。でもその先はまたどうしたらいいんだろう。

「結婚はまだなの?」攻撃からはそれで逃れられたとして、その攻撃の使い手は今度は「お子さんはまだなの?」攻撃をしてくる人にジョブチェンジするだけじゃないのか。

パートナー自身がよしとしても、その家族には受け入れてもらえるのか。自分の家族はよくても、パートナーの家族に孫を見せられない負い目に耐えられるのか。

とか思って子どもを持てたとして、そんな理由で産み落とされる子どもは可哀想じゃないか。幸いに子どもが生まれてみて愛せたとして、今度は外野に口出しをされることなくその子どもを幸せになれそうなレールに乗せることに躍起にならざるをえなくて、結局誰にも文句を言われないなんて一生無理じゃないのか。

 

取らぬ狸の皮算用だと笑われるような話だということは知っている。

知っているけれど、自分のライフイベントを誰かと共にする覚悟というのは、その先全ての選択と決断に他者を巻き込んで自分だけの問題ではなくなることなんだぞってプレッシャーを受け止められる気が一生しない。

女性のためのものだから女性の好きにしなさいとか言われる指輪や結婚式すら、憧れのブランドも会場もないしドレスの形なんてよく違いが分からない。

お色直しのドレスだって、希望はないどころかそもそもドレスが似合うと思ってないから選ぶ手がかりすらない。招待状に飾り付けに挨拶に手紙?面倒だから全部無しじゃだめなの?そもそもそこまで選択の連続とかしんどいので開かないのって無し?今時はありだと思うけどやっぱり「普通はするよ」星人に来襲されるよね?

 

 

初手の「結婚」だけでわりとこれだけ躓く自信がある。無しにする選択肢が通じればいいけど「会社や親の体面のために開かなきゃ、だから君が決めて」とか言われたらもう全部ひっくり返して逃げたくなる気がする。自分だけの決断でそれが許されないなんて私には重すぎるから、やっぱり向いていないんだろう。

純白のドレスも、柔らかな赤子を抱くことも、新築のマイホームも、全部憧れたことどころか自分に関係があって選びとるものだと思えたことがない。本当に本気でない。

だから、結婚できないこと自体に泣くことはきっと一生ないけど「普通に結婚したいと思えるようになりたかった」と泣いたことはある。

 

そういう幸せを具現化したようなものは、画面の向こうとか隣の家とか、壁の向こうの誰かのためのものであって、眺めていることはあっても自分のテリトリー内にやって来ることはないという感覚が消えない。

それでも「世間一般の大人の通過儀礼」として割り切ってやり過ごせないかな、なんとか普通を擬態できないかなと考えてみたところで、書き連ねたように「その先はどうやり過ごすの?」「そんなの失礼じゃない?」の連鎖が止まらない。

 

何かを選ぶことは、何かを捨てることだってことくらいは知っている。

だから、もう何も選ばないから全部いらない。何も選び取らないから何かを選んだことによる責任もいらない。

私は、1日にコップ1杯くらいの幸せで十分だから。誰もが1リットル紙パックを欲しがるわけじゃない。貯水槽になみなみの幸せなんて身に余るからもっと飲めと注がないで。

そうやって生きていけたらいいのに。なんで放っておいてもらえないんだろう。どうして皆と同じような形の幸せを求めてないと説教されるんだろう。

もう何を恨めばいいんだろう。責めればいいんだろう。性的指向がマイノリティなわけでも、出産能力を失っているわけでもないはずなのに結婚して子を残していくことを選べない自分の感情だろうか。責め続けても変わらなかったけど。

そうして泣くのはもう嫌だから、決断しない決断をする覚悟がほしい。