午前1時のレモネード

翌朝の化粧ノリより、夜更かしの楽しさが大事。

わたしにとっての神様はきっとその人の形をしている。

その人が亡くなって、今年で10年が経った。

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わたしは今23歳だから、まだ人生の半分以上はその人と共にある。

だけど、その20年ぽっちの人生さえ「その前」と「その後」で120度くらい様相を変えていて、「その頃」のわたしはそれこそ信仰の拠り所を失ってしまったような有様だった。

それでも時間とは恐ろしいもので、わたしはもう「その前」を思い出せなくなりつつある。だから、たまたま見かけたお題に乗っかって今のうちに綴っておく。

お題「おばあちゃんの思い出」

 

 

わたしは生粋のおばあちゃんっ子だった。

実家と祖父母宅は15分程度の距離だった。親の仕事の都合で、わたしたち孫一同は小学生の間、実家から登校してその祖父母宅に帰宅していた。

そして仕事を終えた親に連れられ実家には寝に帰る、といった生活をしていて、要するに祖父母にはかなり面倒を見てもらっていたのだ。

 

その中でも、わたしは祖母にとても可愛がってもらっていた。

当時のわたしは生き急ぎすぎなくらいクソ真面目な良い子ちゃんだった。

塾には自ら通いたがりトップクラス上位を取り続けた。運動会では選抜リレーに選ばれ続け、学級委員や児童会生徒会にも進んで手を挙げ続けた。

小学生ながらそれを「頑張っている」とも実感せず息をするようにこなしていた。自分はデフォルトでよくできる人間で、何にでも選ばれて普通なんだと思っていた。

 

その気持ちのベースはたぶん祖母だった。ただの孫バカかもしれないけれど、わたしが毎年毎学期当たり前のようにやっていることを、飽きもせずに褒めてくれた。

今思えばそうして、わたしの行動指針には「もっと褒めてもらえるように頑張りたい」が根っこの部分で刷り込まれていたのだと思う。

だけどある日、わたしがどれほど頑張ってもどうしようもないこともあると気付かされた。

 

 

祖母にがんが見つかった。発見の時点で既に末期で、余命は3ヶ月だと告げられた。今から12年前のことだ。

80代になっても元気な方も多い中、祖母はまだ60代半ばだった。

つい最近まで元気にわたしたちの面倒を見てくれていたのに、末期の病気だなんて信じられなかった。わたしたちの結婚や成人式どころか、来年すら見てもらえないかもしれないなんて意味がわからなかった。

 

それでも現実は進み続ける。市で一番大きな病院に、祖母と母は毎日のように通い始めた。手術を受けた。それでも気休め程度のことしかできなかったと聞かされた。

抗がん剤治療が始まり、祖母はしょっちゅう点滴に繋がれるようになった。わたしは注射が大の苦手で、点滴を見ては怯えていた。

祖母はそんなわたしを見て日記に「怖がらせて申し訳ない、でも見ていてほしい」と書いていた。一番苦しいはずの人が「申し訳ない」なんて、この人はいつになれば自分のことだけ考えるんだと思った。

 

そのうちに入院生活が始まった。

祖母は宣告された余命3ヶ月を越えても生き続けた。治りはしなくとも、このまま細々と生きていけるんじゃないかなんて思った。

だからと言ってわたしにできることなんて何もなく、せいぜい病院にしょっちゅうついて行くか、入院が始まってからは足繁く顔を出しに行くくらいだった。

 

病院は不思議な場所だと思った。まっしろで明るい見た目なのに、確実にそこでは人が死に、どこかに遺体さえ安置されている。

人の体が中から外から発する匂いと、不安や諦めとがなんとなく漂っている。だけどそれで淡々と日々が送られている。

病院という場所に若くて健康な自分が居るのは不釣り合いでそれこそ悪いことじゃないかとそわそわして、それでも祖母には会いたくて通っていた。

 

病院に閉じ込められてしまった祖母にできることはなく、わたしがようやく思い付いたのが「わたしが頑張って、祖母が喜んでくれて元気になってもらえそうなニュースをたくさん届けよう」ということだった。

祖母が余命を宣告されてから1年少しが過ぎた。その間にわたしは中学生になった。

塾では私立と公立でコースが分かれたこともあり、わたしは不動のクラストップになった。中学の定期テストでも常に学年一桁をキープし続けた。部活でも市の大会、県の大会と入賞し続けて、いきなり地方大会にまで出られるようになった。

 

祖母は起きているのも辛そうなのに、それらをすべて喜んで聞いてくれた。「すごいね、将来は〇〇高校かな、これからも楽しみだね」と。わたしはその度、「うん、だから次も見ていてね」と言った。

「次」の約束があるうちはそれを楽しみに生きていてくれるんじゃないかと思っていた。周りの評価なんてどうでもよくなっていて、ただただ祖母を喜ばせて、気持ちだけでも明るくしたいと思っていた。

3ヶ月の余命が半年、1年と延びてきたように、自分が祖母を喜ばせられるうちは少しずつでも寿命が延ばせるんじゃないかなんて勝手に信仰を立てていた。

 

 

だけどそんなことは当然なくて、祖母は夏と秋の大会の間に逝ってしまった。

朝から病室に詰めていた大人たちと違って、わたしたち子どもは1秒だけ間に合わなかった。危篤状態と連絡を受けて向かった病院で、精いっぱい早歩きをして病室に向かって、わたしがドアを開けた瞬間に逝ってしまった。

どうして病院だから走ってはいけないだなどどクソ真面目に考えたんだろう、全力で走ればよかったと後悔した。実感も湧かないまま、とにかく3日泣き続けた。

そのうちに「どこか遠くに行っただけなんじゃないか」と思った。だけど当然会えることもないまま日々は続いていった。

 

祖母という神様をなくしたわたしは半年しかもたなかった。祖母に褒めてもらうために頑張っていたわたしは、何のために頑張るべきか分からなくなった。

習性で勉強も部活も続けたけれど、祖母と違い両親は「一度できたことならそれが当たり前」だとさほど気にせず褒めてはくれなかった。

周りの人は褒めてくれたけれど、周りと比べて凄いねと言われるのはなんだか違うと思った。わたしはわたし自身を認めてほしくて、凄いねじゃなく頑張って偉いねと言ってもらいたくて、見ていてほしかったのだと気付いた。

 

具体的に言えば、学年が上がり2年生になると同時に、油断して辞めた塾とちょうど手に入れた携帯電話の存在もあってわたしの成績は上の中まで下がった。

決して悪くはなかったけれど、祖母と話していた学校を目指すには足りないくらいには落ちぶれた。部活も結果は出し続けていたけれど伸び止まり、スランプぶってうまくサボるようになった。

祖母が亡くなって2年目には3年生になり、いよいよ進路を決めてそのツケを払う頃になった。もはや報告したい人も目標もなく、「このまま行ける高校に行こう、最悪スポーツ推薦を使えるから更に落ちてもいいや」と思っていた。

 

 

けれど祖母が亡くなってちょうど2度目の季節、中3の夏の終わりになぜかわたしの成績は突如上がった。

周りが落ちたのか、申し訳程度にしていた勉強(わたしは周りが部活を引退した夏も部活をしていた)の成果が出たのかは分からない。とにかく祖母のいた頃には及ばずとも、約束していた高校自体は目指せる位置に戻った。

もう直接報告を聞いてもらえなくても約束は叶えたいと、突然スイッチが入った。一応親の希望でもあったけれど、それはもうどうでもよかった。

 

昼も夜もなく勉強をした。文字通り半日近く勉強してまだ「これでも間に合うか分からない」と、今思えば恐ろしいことを言っていた。とにかく可能性が見えたからには約束に間に合わせたかった。

その甲斐あって祖母がいなくなって3年目の春、わたしは約束の高校の門をくぐった。

あの頃のわたしなら叶えられたであろう、祖母の期待していた特進クラスには届かなかったけれど、それでも「ああこれで『孫が○○高校に入ったの』とは自慢してもらえる」とようやくほっとした。

居なくなってもわたしのモチベーションを支えてくれた祖母は、たぶんそのときわたしの神様になった。

 

それからもその神様にわたしは何度も誓いを立てた。すぐ側にいてくれたころほどの活躍はできなくても、失望させたくなかった。

高校での部活動も大学進学も就職活動も、その人が生きて側にいてくれたら喜んでくれそうな方を少しでも目指そうと走り続けた。そして今、目指していた仕事にドンピシャではないながらなんとか関わっている。

 

たぶん祖母も、わたしの思春期をずっと見守っていたら、失望もすれば褒めてくれないこともあっただろう。

それでも幼いわたしに「誰かに必要としてもらえるために頑張る」という道をくれた。時に盲目的なまでに、自分の生きる道を決断する後押しの理由にするほどに、わたしはその人が大好きだった。

 

その人にいつかまた会って褒めてもらいたいがために、わたしは天国ってやつを信じている。きっとその人の姿をしている神様に、また頑張ったねと褒めてもらえる何十年後かのために。あの頃よりスピードは衰えながらも、明日も歩き続けるのだ。