午前1時のレモネード

翌朝の化粧ノリより、夜更かしの楽しさが大事。

離れてみたら、話がしたくて放したくなくなった手がありました。

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「あんた達、夜の散歩に行きなさい」

と、妹のiPhoneのスピーカーから聞こえてきたのは母の声だった。

 

最近ダイエットに勤しんでいる母と妹は、ここのところよく二人で夜のウォーキングに出かけているらしい。

それを今日は私が付き添い役で、私の住む街でも行えとのお達しだった。「ついでにあんたの気分転換にもなるでしょう」とのこと。

妹はもう就活も終わり、暇をしている大学4年生だ。そこへ姉である私が突然に熱を出してとうとう仕事を休んだ。それが一昨日のこと。

そして昨日から、暇してるんだし様子を見てこいとの母の命で、電車で2時間の実家から派遣されてきている。

 

 

昨日は家に帰ると、妹が自分用の大量のサラダと私用の温かい味噌煮込みうどんを夕飯に仕込んでいた。

ついでに「何が食べたいか、何なら食べられるか分からない」と言った私用に、大量の茶碗蒸しや羊羹やゼリーといった喉ごしのいい食べ物を買い込んでいた。

冷蔵庫をいっぱいにした妹は「両親から資金提供があったからこそよ」と得意げだった。

けれど私は、いつも唯我独尊な奴が「感謝してよ」と強要もせずに素で優しくしてくれているらしいことに、正直なところ面食らっていた。

 

両親はともかく、私、こいつにまでこんなに心配されてるのかぁ。

そんな情けなさとありがたさと安堵で泣きそうになりながら啜ったうどんは温かくおいしくて、食欲はなかったはずなのに気付けば2玉分くらいを食べ切っていた。

「ごちそうさま」と言うと、妹は「あれ食べ切ってる、なんだ食欲出たの」と言って鍋を下げて、やっぱり礼の言葉も求めずに鼻歌を歌いながら洗い物をしていた。

こんなにいい奴になっちゃって、こいつもうすぐ死ぬんじゃないだろうかとぼんやり思った。

 

 

そして今日だ。

昨日の買い出しで食料があるので、今日の妹はずっと家にいたらしく、私が帰ってから夕飯を作り出した。

相変わらずそこまでお腹のすかない私は、妹が「違う私の食べたいものはきっとこれじゃない」とかなんとか言いながら何かを炒めているのを、ベッドで丸まりながら聞いていた。

妹が食事を終えた後、余らせていた具入りの卵焼きをふた切れだけつまんで、洗い物をしている妹がスピーカーで母と通話をし始めたのをこれまたベッドで聞いていた。

 

そして下されたのが夜の散歩令だ。

「あんた『達』?」と、話を振られた気がした私はのそりとベッドから身を起こす。

「そうよ、どうせこれスピーカー通話で聞こえてんでしょ、あんたにも言ってんのよ」とスピーカー越しの母。

「確かにー、姉ちゃんいるならこっちでも行っとこう」とノーブラすっぴんパジャマのくせに即座に行動を決める妹。

こうなれば二人に逆らう方がめんどくさい。

まあ別にもう熱もないし、歩くくらいなら平気だし、と私も妹と一緒にジャージに着替える。

 

 

「で、どっち方面に行きたい?」と私。

「行ったことないから、駅の反対方向」と妹。

「じゃあ川の向こう側ね」と、幹線道路沿いに南を目指してまっすぐ私たちは歩き出す。

「駅の方角じゃないのに、めちゃくちゃ明るいし車通り多いし、人も普通にいるじゃん」

「だって一応県道だからねこの通り」

そうは答えるけど私も少し驚いた。この時間でも人は出歩いていて、世の中はまだ寝静まらずに普通に動いているんだな。

平日の夜は翌日のために早く寝ることしか考えなくなっていて、そんなことも忘れていた。

 

そう言ったら「でも高校生の頃とか、塾とか言ってる人は帰りこのくらいで普通に出歩いたりしてたよね?」と、妹がたまたま通りかかった明かりのついた塾を横目に言う。

「そういえばそうだよね、行事の後とかも平気でこのくらいまで出歩いてた」

そうか、年齢だけは大人になったはずなのに、気付けば学生時代よりイイコな生活になっていたみたいだ。

知り合いも何もいない街で女性の一人暮らしで、出歩く用事も何もないから当たり前なのだけど。夜のこの街を全然知らなかった。

 

「だけど今のこの感じは、ひとり暮らししてた大学時代を思い出すなぁ」

夜が遅くなっても心配する人は居なくて、翌朝を気にすべき用事も別になくて。思い立ったらコンビニに行ったり、呼ばれたら友達の家で晩ごはんを食べてから無駄に居座ったり、たまーに朝までカラオケしたりしてたよね。

この時間の夜の街を歩いてると、その頃のこと思い出す。そんな思い出話を、つらつらと実家暮らし大学生の妹にしてみる。ふーん、大学生って感じだね、と適当に相槌を打たれる。

そうなの、空気はあの時と同じなの。でも私はもう大学生じゃないの。

 

 

気付いちゃったら、思い出しちゃったらもうだめだった。あーとかうーとか、うめき声を零しながら「もうやだなぁ、なんで私はもう社会人なんだろ、この仕事できそうにないなぁ」なんてことをぶつぶつ唱えるしかない。

ごめんねこれから新社会人になるあんたにこんな所見せちゃってごめんね、大丈夫だよ、私だって去年は生きてたでしょ。合わない仕事に就くと精神をやられてこうなるだけで、そうじゃなければ普通に生きていけるよ。

そんな懺悔を挟みながら、妹の手首を捕まえる。人の体温を握りしめながら、愚痴でも懺悔でもなく、ただこういうことがこういう理由で苦しいんだって吐き出し続ける。

 

不遜で世界の中心は自分なはずの妹は、嫌がるでも呆れるでもなく、私の横でただ静かにふんふんとそれを聞いている。

たまに、「それ私の友達もバイト先でおんなじこと言われたらしいしおんなじこと言ってた」なんてフィードバックまでする。

おかしいな、わたしの妹はこんなにできた奴だったかなぁ。でも母さんも「あれはああ見えて、世界の中心は自分だからこそ他人の言葉で揺らがないどっしりしたとこあるわよ」なんて言ってたなぁ。

確かに、こいつのちょっと太い腕を掴みながら横を歩いて話を聞いてもらうのは、なんの解決にもならなくても落ち着けるかも。癒しとまでいかなくても、安心はできる気がする。

 

 

ふと状況を客観視してしまって、この妹にこんなに甘えている自分にちょっとおかしくなる。なんだか笑えてきて気が緩む。

ごちゃごちゃ考えていたことは吐き出したし、時間もそろそろいい具合に遅いし。

「次の交差点辺りで道曲がろうか。来た道を戻ってもつまんないし、住宅街をぐるりと回って元の橋のところに出られるから」

「そう?道分からんし任せる、着いてくー」

そう言って県道を折れると、途端に道が暗くなる。車も人もいなくなる。私たちの田舎を思い出す、静かで暗い住宅街だ。

 

いつの間にか手は離れていて、今度は子供体温な妹の、ふっくらした手が私の二の腕を掴む。

今自分がどこにいるのか分からないと1分おきにぼやきながら、「姉ちゃんはこの道知ってるの?帰り道分かるの?」と聞く。

「初めて来た道だけど、家の方向と何となくの現在地は分かるから帰れるよ」と言う私に、妹は語尾に音符マークが見えそうな軽いごきげん声で「ふーん」と返す。

まるで「じゃあちゃんと連れて帰ってね」と言わんばかりに掴まれた腕にふと「あぁ、今わたしこいつに頼られてるんだ」と思う。存在を肯定してもらっていると感じる。

 

横を歩きながら鼻歌を歌う、横柄で自己中でマイペースで甘えたがりで、存在感だけは無駄にあるわがままボディ気味な私の妹。

もうこいつの近くに居たくなくてこいつの鼻歌を聞きたくなくて、私は家を出たはずだったのに。こいつの存在に、こいつの手の生暖かさに、今こんなにも救われている自分がいる。

ハタチも超えたんだし、いい加減大人になれよと思っていたけど。

今だけは「鬱陶しい暑苦しい離せ」って言わないから、ねぇもう少し私の手を握る甘えたのままでいていいよ。姉ちゃんがいないと部屋にも帰れないあんぽんたんでいいよ。

 

妹の手をそっと払って、今度は私が奴の二の腕を掴む。私の手にはあまる丸太みたいな太さ、でも確かに暖かくて柔らかい人の肌。私と同じ血が通っている腕。

私の部屋まで、あと5分と少し。

 

ごきげんで能天気な妹は、逞しくそして強かに、ずんずんと私の横を歩く。ただ横にいるだけで呼吸が楽になるこの生き物は、離れても本気で放しちゃいけないんだろう。

そんな生き物の二の腕を二度ぷにぷにと揉んで、私たちは家に向かって信号を渡った。