午前1時のレモネード

翌朝の化粧ノリより、夜更かしの楽しさが大事。

まっすぐ進もうとするほど、捻くれてると言われる僕らは

わざわざ主張することでもないけど、嘘を吐くのも面倒だから。結婚を考えるようないいひとはいないの、と聞かれると、私は結婚したくないんです、と言う。
要らぬ波を立てていることは分かるけど、妙齢の女性なら当たり前に守備範囲だという顔で息をするように話を振られるから、私はご期待に添えかねます。と言いたくて。
そう答えるたび現れるのは、そうだよね今はそんな時代だよねと言う理解を示したような言葉と、ああ面倒な捻くれ女に当たったぞ、という顔。あからさまに勿体ないよと説教を始めるひとの方が、まだ分かりやすい。


何だろうなぁ、この空気。
よくあるわけでもないけど何となく既視感のあるこの圧力に、ふと思い出したのは最後の進路選択だった。

20代も後半の女が結婚したくないと言うことは、進学校の生徒が大学受験をしないと言うことに似ている。

生まれ持って女だったか、自分の意思で進学校に入ったかという違いはあれど、『ほんとは別に義務でもなんでもないのに、圧倒的多数がそれを選ぶから、選ばない人間は義務を放棄した異端者のような扱いを受ける』ところはよく似ているなぁ、と思う。

漠然と「いい将来、安定した未来」を思い描いて、良い大学に入れそうな良い高校に入った子どもが、大学に行く未来と自分を疑わないように。20代半ばに差し掛かった女は結婚するものだと、いろんな人が漠然と思い描いているし疑わないでいる。


もしかしたらその子どもは、たまたま最寄りの進学先がそこで、たまたま成績も釣り合ったから受験して入学しただけかもしれないのに。
その上で、夢への最短ルートを考えたら、資格を取るために大学ではなく専門学校に行くのがベストだと思っているだけかもしれないのに。


自称「捻くれてない、まっすぐに育った」大人は言う。
4年間大学に行った方が色んなことが学べるよ、4年もあれば選択肢も視野も広がるよ。学士の肩書きがあった方が出来ることも増えるよ。
そもそもあなたの学力を活かさないなんて勿体ない。誰でも入れる学校じゃないのに、じゃあ何のために入学したの。実力のある人は相応のところに行くべきだ。

それが本当にまっすぐなんだろうか。歪めて捻ろうとしているのはどちらなんだろうか。そう思う私の物差し自体が、もう歪み切っていると言うんだろうか。



だって、私の人生だって、別に結婚して奥さんになって母になる一本道なんかじゃないはずなのに。
自称「清く正しく真っ直ぐに生きている」友人や大人たちは言う。

結婚した方が自分だけの人生よりもっと豊かになって色んなことが学べるよ、ひとりよりふたり、ふたりよりそれ以上の方がしたいことの選択肢も視野も広がるよ。やっぱり結婚してるって肩書きがあった方が信頼されるし出来ることも増えるよ。

そもそもあなたの見た目やスペックを活かさないなんて勿体ない。誰でも入れる学校や会社じゃないのに、誰もが経験できるわけじゃない成績を残してきたのに、今まで何のために頑張ってきたの。実力のある人は、実力のある人同士で幸せになるべきだし、後世にその血も残すべきだ。

まるで私の人生が、結婚や子どもを産む、それだけのためにここまで続いてきたように。平気でそんなことを言う。



べつに私は、世間の肩書きとか適齢期だなんて知ったこっちゃないのだ。
結婚するくらいなら死ぬとまでは言わないし、もしかしたらこの人とだったら結婚できるかもと思える人も、どこかにはいるのかもしれない。
でも、それは選択肢のひとつであって、義務として当たり前に通らなければならない通過儀礼でもなんでもない。そうじゃなかったっけ。
出来の良かった中学生の頃に社会科で習った国民の義務とは、教育勤労納税だったと思っていたのだけど、知らない間に結婚出産も組み込まれていたのだろうか。


選ばなかったら死んだり捕まったりするものでもないし、そんなに選びたいとも思わないから選ばないね。
ただそんな選択肢を取るだけで、どうして私の修飾語は「捻くれている」や「こじらせている」になるのだろう。
大学受験を選ばない進学校の学生どころか、みんなに人気のおやつを選ばない園児のように、ただ「これ好きじゃないから選ばないよ」と言っているだけなのに。自分の生きたいように、思うように生きているだけなのに。

捻くれてるとかまっすぐとか、だれが決めてるんだろう。
平面では捻くれているように見える線だって、三次元で見たらある一点からはまっすぐ見えるかもしれないのに。誰がそんな定点観測をしてるんだよ。



知らない。わからない。知りたくもない。
結婚を夢みて、結婚を選んで、そうして幸せそうに笑う友達の笑顔は眩しくて尊くて大好きだ。めちゃくちゃ幸せになれって心から願える。だけど、私がそれを選ぶかどうかには、その幸せそうな笑顔は一ミリだって関係ない。私の人生の選択と、友達の人生の選択をごちゃ混ぜになんてしない。

こんな話を笑って受け流せずにこんなことを書いてしまうから、言ってしまうから、たぶん素直じゃないと言われるんだろうと自覚はある。
でもこの場合の素直って、別にまっすぐなわけじゃないよなと思うから。少なくとも私にとってこの言葉を聞き入れることは自分をぐにゃぐにゃに曲げることで、自分をぐにゃぐにゃに曲げてまで、性根がまっすぐだの素直だのと言われたいわけじゃない。


自分は世間で言うところのまっすぐじゃないと、でも自分の意思はちゃんとまっすぐ持ってるよと言える程度には、まっすぐ自分のことを見て考えているので。
世間のものさしに合わせて柔らかくなれない私は、背筋とつま先くらいはちょっとだけ曲げて「服と靴が小さいなぁ」って顔で明日も歩く。