午前1時のレモネード

翌朝の化粧ノリより、夜更かしの楽しさが大事。

夏のあかるい浴室の匂いについて

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実家の浴室から、昔好きだった人の部屋の匂いがした。
春が終わる頃の夜、湯気混じりに嗅いだ匂いだったけれど、なぜか夏の昼間、がらんどうな空間に透明な陽光が差すあかるい浴室を思い出す、たぶん浴槽洗剤の匂いだった。


匂いの記憶は五感の中でも強いと言っても、この匂いを嗅いだことがある事実すら忘れていたのに、一瞬でどこで香っていたのかまで思い出すのだなぁと驚いた。
何の匂いなのか、家族に聞こうとして止めた。
きっと何らかの洗剤であるその商品の正体を、知らずにいられればただの懐かしい匂いというだけで済む。でも知ってしまったらどうすればいいかわからなかった。
その商品を買えなくなってしまうのか、思い出してなんてないと自分に言い聞かせて素知らぬふりで手に取ることもあるのか、どちらにしても少しだけ呪われてしまうようで嫌だなと思った。


何となく、縁日を思い出す匂いだった。
記憶の中の白い浴槽には、そんなわけないのだけど、つめたい水が張られて、ビニールプールみたいにヨーヨーがぷかぷか浮かんでいて、カラフルなビー玉が敷き詰められて水底できらきら反射して、そこを赤い金魚たちと黒い金魚がゆらゆら泳いでいるような気がした。

ほんとうはヨーヨーだのビー玉だのどころか、入浴剤のひとつも置いていないような殺風景な浴室だったと知っている。
それなのにそんな風景が浮かぶのだから、匂いが思い起こされる記憶というのはセンチメンタルなものなのだなぁと身にしみて知った。



こんな風に思い起こしてみたけれど、実はこの匂いが好きだったわけではなかった。

その人自身の匂いは好きだった。
どこかで嗅いだことのある、女の子より女の子らしい匂いがするなと思っていて、ある時にたぶんこれだと気が付いて、やっぱりパンテーンの匂いだったと答え合わせができたのは初めて一人暮らしの家に遊びに行った日だった。


でもやっぱり、家の匂いと本人の匂いは少し違うのだなということもはっきり知った。
一歩、部屋に入って吸った空気は「誰かの実家みたいな匂い」だと思った。自分の家の匂いなど分からないから、それはきっと、いつかお邪魔したどこかの家で使われていた家庭用洗剤たちの匂いだったのだろう。


別にお洒落なルームフレグランスの香りを期待していたわけではないけれど、それでもなんとなくこれじゃない気持ちになって、たぶんヘアワックスの匂いだとか男性用の爽やかすぎる洗顔料やボディソープの匂いだとか、そんな匂いの空気を期待していたのだと思う。

いかにも「理想の彼女」みたいなシャンプーのいい匂いをさせる人の部屋で過ごしながら、キッチン兼廊下に出るたびに「誰かの実家」の匂いに落ち着かなくなった(おそらくは本人の実家の匂いだったのかもしれない)。
それは別に初めての男性との甘酸っぱい思い出とかではなくて、慣れ親しんで安心するはずだけどそわそわと落ち着かない、不思議な気持ちを思い起こす匂いだった。


私にとっての実家も、もうそんな場所になったのかもしれないと思った。
十数年間住み暮らして間違いなく慣れ親しんでいるけれど、でももうここは今の私が居る場所ではない。そしてこれからも、ここに住処を定めることはきっともう二度とない。

よく知っている空間だけれど、でも自分の居住権はない場所。
その浴室の匂いは、懐かしいけれどずっとそこにはいられない、夏の一日だけの縁日みたいな匂いがするのだ。