大人になることの意味がわかった気がしたのだよ
転職に伴う有給消化のおかげで、このところの私は社会人でありながら夏休みを満喫している。
大学生の頃は2ヶ月くらいあった夏休みだけど、正直なところ遊んだり出掛けたりするお金もなかったので、ただただ時間だけを持て余していた。
「学生の頃は時間があってお金がなく、社会人になればお金があって時間がない」とはよく言うけれど。まさにそうだと、社会人1年目の去年は噛み締めていた。
ただ、今の私は社会人なのに夏休み中。
つまり(学生時代よりは)「お金もあって時間もある」状態で、おそらくこんな機会はもう二度とない。
正直なところ私は昔からお金を使うことに罪悪感と抵抗がありまくり、貯金残高が減ると不安で泣きたくなるので、極力お金は使いたくないタイプではある。
でも学生時代にぼんやりと「時間はあるけどお金がないからできないな」と思っていたことを、「お金がない」というネックを除いて実現するなら今だと思った。
学生時代、それこそ中学生あたりからずっと「いつかしたい」と密かに暖めていたことがあった。
それが「遠足や遠征で大人に連れられて行ったところにひとりで行き、ひとりで好きに歩くこと」だ。つまり言ってしまえばひとり旅。
ただ普通のひとり旅と少し違うポイントは、観光スポットをひとりで巡るのではなく、名所でもなんでもなくてそれでも「自分にとっては思い出の場所」を記憶を元に探して歩くのだ。
ただ私が楽しいだけの、写真を撮ってみてもフォトジェニックでもなんでもない旅。それでも私の中高生時代のガラケーで撮った写真よりは、よっぽど鮮明に映せるはずの風景をもう一度だけ見に行きたかった。
何よりこれは私にとって、ちょっとした供養に近い儀式でもあった。
中高生時代の「いかにも青春な思い出」は、擦り切れそうなくらいに脳内で再生を繰り返すうち、景色ごとどんどん勝手に美化されて色鮮やかになっていた。
最近ではもうはっきり記憶の輪郭を思い出せなくなってきているのに、ただ綺麗で色鮮やかだったという羨ましさだけが残っている。
ふと思い出しては、はっきりしないものに後ろ髪を引かれて、勝手に憧れて焦がれて苦しくなる。もうそんなことを止めたいとここ数年思っていた。
そのためにも思い出の景色を、脳内の記憶ではなくデータとして手元に置いておきたいと思った。あの景色は10代の少女でなく20代になった私でも行ける、ネバーランドでもなんでもない場所だったと自分に言い聞かせる材料がほしいと思った。
お金がかかるとはいっても海外でなく国内旅行だから、10万円〜単位を使うわけではない。ただそれでも1ヶ月分くらいの食費は飛ぶ。
片道の移動時間も3時間超え。歩き回って疲れて日帰りが厳しければホテル代もプラスでかかる。
「社会人の夏休み」中でなかったこのところ1年の私には、時間とお金両方、プラス体力を理由に踏み切れないままの気持ちだった。
だけど今の私には「面倒くさい」以外に踏み切らない理由がない。
休暇の過ごし方を聞いてくる家族には、呆れながら「そんな特に何もないところに何をしに行くの?お金と時間の無駄でしょう?」だの「思い出巡りって、お前の時間は中高生で止まってるの?」などと言われた。
でもこの7、8年暖めすぎて発酵しそうな思いをいい加減どうにかしたくて、構わず電車に乗ってきた。
3時間と少しかけてたどり着いたそこには、やっぱり別にフォトジェニックでもなんでもない、だけど記憶の中と同じ景色があるだけだった。
ただの試合会場(というか施設)があって、もう私とは何の面識もなければ世代も多少違いそうな中高生が、昔の私のように我が物顔で歩いているだけだった。
それを寂しいとも羨ましいとも思わなかった自分にホッとした。ただただ、いつかこの子たちもこの景色を思い出すなら、懐かしく優しくて色鮮やかならいいなと願っただけだった。
私の記憶の中の青春の風景は触れたら消えてく幻でもなんでもなく、今も来られる場所として変わらず在った。そう確かめられただけで満足したし、安心した。
そして、この満足と安心を得られたことが、私が少し大人になった意味なんじゃないかと思った。
何年も惑わされていた「青春の風景」という幻は、その気になればいつでも来られる現実なんだとずっとずっと確かめに来たかった。
だけどずっとずっと持てなかった決意と時間とお金のセットは、大人になったから手に入れられたのだ。
そもそも家族に言われた「お前の時間は止まってるの?」や「過去に囚われず今を生きなさい」は、私にとっては見当違いな指摘だ。なに言ってんだって感じでしかない。
幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、でそれぞれ世界が完結しているわけじゃない。というかある程度連続性があるのが普通だろう。
今の私の中にも、幼稚園の頃から持っている願いもあれば高校生や大学生になってから夢見ていることもある。それぞれの時代の思いを抱えたまま今も生きている。
抱えたまま捨て切れていないのは、今までの私には時間なりお金なり立場なり何かが足りなくて、その思いを叶える術がなかったからだ。
私が大人になっていく意味は、その「いつかの自分が叶えられなかったことを、叶える術を手に入れていくため」なのだと思った。
書き出してみれば、ものすごく当たり前のことすぎて笑ってしまう。
それでも「今できないことでも、大人になって叶えたり解決したりできるならそれでいいのか」と気付いて少しラクになったし楽しくなった。
もちろんその時にできないと意味がないこともある。遡って過去の後悔を消すこともできない。今できることは今やる。
問題は先送りしないけど、やりたくてもできないことは先送りしてもいい。少なくとも、今すぐ叶わずとも年月が経っても消えない願いならこれでいいんじゃないだろうか。
今の私には、子どもの頃に将来の自分に持っていた、漠然として大それた夢と希望は持てないし応えられない。もう私には夢なんてないと思っていた。
そんな今の私にも、実はまだ託されたままの願いはあったし、これからも叶えられる小さな夢がまだあるかもしれない。
子どもの頃の私は、早く大人になりたかった。小さな田舎町をさっさと出て、都会に住みたかった。
中高生の私は、大人になりたくなかった。もう今のままずっと時間が止まればいいと、きっと何者にもなれない自分は小さなこの街でこのままモラトリアムを過ごせればいいと思っていた。
大学を卒業して社会に出た今も、これ以上大人になりたくないと内心ずっと唱えていた。
でも、今の「大人」レベルじゃ叶えられないままの願いがあるかもしれない。もう少し大人になれれば果たせる夢があるかもしれない。
小さかろうと大きかろうと、大人も夢や希望を捨てずに持っていていいんだ。そう気付けたことが、きっと私がまた一つ大人になった意味なのだ。