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午前1時のレモネード

翌朝の化粧ノリより、夜更かしの楽しさが大事。

複雑に揺れる乙女心の公開プレイは気まずいよねって話

 

わたしもこちらの記事を読みまして。件の広告も拝見した。

 

わたしは一応女性ではあるのだけど、何を隠そう迷惑とまでいかずとも電車内での化粧はみっともないと思っている派だ。

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とはいえ何でもそう思うわけではなくて、口紅やリップを塗るくらいなら気にならない。そもそもリップクリームくらいなら、唇の荒れやヒビが気になればわりと誰でもどこでも塗るんじゃないだろうか。

 

たぶんわたしが気になる基準は「鏡を使うか否か」なのだ。車内の混雑度はそれほど関係ない。だから鏡を使わずに、緩んだ髪を結び直しているような人は気にならない。けれど鏡を出して本格的にヘアアレンジを始めている人を見たら「おいおいちょっと」とは思う。

 

そもそも人はなぜ鏡を見るかといえば、「自分が客観的にどう見えるか知りたいから」だと思う。そして化粧をする時に鏡を見るのは「客観的に綺麗に見えるようにするため」だと思うのだ。

わたしがなんだかみっともないなあと思ってしまうのは、鏡を見て化粧をしている時点でその人たちは「客観的な自分の見え方を気にしている」と公言しているようなものなのに、当の客観的な視線を実際気にしていない矛盾っぷりと自意識のズレに気付いていないというところだと思う。

 

もちろん、わたしだってすっぴんで出掛けるのには抵抗が出てきた年頃だ。すっぴんのまま外出することへの抵抗は分かる。時間がなかったり化粧ポーチを行方不明にしたりで化粧をせずに外に出る羽目になったら「今日は最悪だ〜」と思う。

それでもわたしの中では「ノーメイクで外出>電車内での化粧」だ。「ノーメイクで外に出るなんて嫌だ、一瞬恥をかいてでも顔面を武装したい」という気持ちと「自分が悪いんだしとりあえず最低限の身支度で最低限時間に間に合わせてから後でなんとかする」という気持ちとの間で乙女心は揺れ、結局後者が勝つ。

 

たぶんわたしが電車内の化粧に抵抗があるのは、前者を選べばまさにその乙女心の戦いを人前に晒すことになるからなのかな、と思う。

性差を逆転して例えるなら、ちょっと背伸びしたい男子中高生が一生懸命髪をワックスで逆立てているのを電車内で見たらどう思うかだろうか。わたしならたぶんカッコ良く見せたくて必死な青春の葛藤の大公開現場を直視できない。「カッコ良く見せたい気持ちはよく分かるけどその意思の公開プレイはやめとけ」とただただ気まずくなる(ただ、明らかにこれからデートな格好とかだったら微笑ましく見てしまいそうだから文脈もあるな)。

とにかくなんだか見てはいけない他人の心と自意識の揺れを目の前に晒されている気分になるのだ。

 

なので強いてこういう状況に「迷惑」という言葉を使って「誰に迷惑か」と答えるとすれば、「目立つ行為をしているから目が行ってしまうのに、それはガン見しては悪い行為だからと気を遣わなければならないので迷惑」、つまり(本人は気にしていなかろうと)気を遣わざるを得ない、現場が見えてしまう人間には迷惑」ということになるだろうか。

でもこの定義だと人前でイチャつくカップルにも当てはまるなあ。気にしたもの負けみたいなところに落ち着いてしまうと、図太くなりきれない自分も悪いような気がしてきた。

 

 

車内での化粧の話からは離れるけれど、こちらのコラムでとてもハッとさせられた部分があるので、自戒を込めて引用しておく。

こちらのコラムの後半は「マナー」そのものの考え方捉え方のお話をされている。日経IDでログインせずとも読めたので引用しても大丈夫だと信じて以下中盤より引用する。

車両内のマナーを言い立てる人たちは、要するに、「定型的な規格にハマれない人間」に苛立っているのだと思う。

おそらく、日本人のうちの半分ぐらいは、リラックスした人間を憎んでいる。
 誰もが自分たちのように、びくびくして、周囲に気を使って、神経をすり減らしているべきだと考えている……というのはちょっと言い過ぎかもしれないが、撤回はしない。

めちゃくちゃ身に覚えがあって辛くなった。

 

「リラックスした人間を憎んでいる」

「自分たちのように、びくびくして、周囲に気を使って、神経をすり減らしているべきだと考えている」

とか、社会人になった今まさにリラックスした(ように見える)学生にめちゃくちゃ思っていることだった。

 

自分だってつい最近までリラックスしていたくせに、向こう側だったこともあるのにそれは棚に上げ、規定にハマっていなかったり外れたりした人々に「なんなんだよズルい」といった憎しみとも呼ぶべき気持ちを持っていた。

個々の感情は共有して共感できても、個々の事情は共有して共体験することは難しい。ぶっちゃけほとんど無理だ。だから、元々「自分たちのようになれ」とまでは思わないけれど「このしんどさを分かるべきだ」という感情を押し付け合うのも不幸自慢にしかならないからやめたいなと思った。

 

あとはここ。

われわれは、昭和の日本人と比べれば、はるかに洗練された所作を身に着けているし、大人も子供も他人に迷惑をかけない身の処し方を自分のものにしている。
 にもかかわらず、駅貼りのポスターや深夜のテレビCMの中にマナー広告の占める割合が増えている。理由は、日本人のマナーが低下しているからではなくて、われわれの「他人のマナーへの許容度」が低下しているからだ。
  私たちは、杖を突いた老人や、車椅子に乗った障害者や、ベビーカーと共に現れる母親が、通勤電車に乗りこんで来ることを許容しなくなっている。
 なんとなれば、彼らは「規格外」で、ということはつまり、標準的な乗客としての条件を備えておらず、結局のところ「迷惑」だからだ。

わたしの「他人のマナーへの許容度」もめっちゃ低下してたわ。

 

さすがに「杖を突いた老人や、車椅子に乗った障害者や、ベビーカーと共に現れる母親」を許容しないなんてことはない。わたしは許容するとかしないとか偉そうに言える立場じゃない。そもそも人間なんて許容されようとされまいと「居る」んだから、人の存在を許容するとかしないと言える立場の人間などいない。

それでも、元から優等生気質なので先述のようにリラックスした人々を「なんだよズルい」と思いがちではあった。その上さらに、最近は自分の中でそう思うラインがめちゃくちゃ厳しくなっている。面積が狭いことの例えで「猫の額ほど」と言うけれど、今のわたしの心の余裕はハムスターの額ほどあるかも怪しい。せめて猫の額まで許容度を広げなければ。

 

と、考えさせられ気付かされました。

学生の頃は地方暮らしで公共交通機関はだいたいクソだったから、社会人になって都市部に出てから公共の場での身の振り方考えまくりで頭パーンしそうでっす!